≫
人物一覧・
合戦一覧・四方山話・用語集≫
【人物の紹介】→
次の武将
|
だが上杉家は内乱で領土がほぼ越後一国なってしまった上、絶頂期の織田信長軍が次々と城を落とし、滅亡寸前にまで追いやられる。
【豊臣家家臣として】しかし本能寺の変が起こり、滅亡を免れた景勝は織田家の中で権力を掌握しつつあった羽柴秀吉と手を結び(1586年には上洛し臣下の礼をとっている)、小牧長久手の戦いや小田原征伐などに参加した。
それらの情報に接した五大老達は会津の景勝に弁解のために上洛するように使者を遣わす。しかし景勝は上洛に応じないばかりか、使者に重臣・直江兼続の返書を持たせて追い返した。
【決戦】そのため家康は激怒し1600年6月、征伐軍を起こし大坂城を出発した。7月に江戸に到着し上杉家をいよいよ攻撃しようとした7月24日、征伐軍は上方で石田三成ら(以下、西軍主力)の挙兵を知る。そこで家康の次男・結城秀康らを押さえにおいて上方へと向かう。
その後、家康に謝罪しなんとか改易だけは免れるが、1601年8月に米沢30万石に減封されてしまう。これにより経済的に苦しくなった上杉家であったが産業開発や治水事業などでなんとか苦難を乗り切った。
【武辺者の集まり】1614年の大坂の陣では徳川の一軍として参加する。鴫野の戦いでは佐竹義宣と共に豊臣軍と激戦を繰り広げる。この戦いぶりは「さすがは謙信公の家系」と家康に賞賛されている。夏の陣では京都の治安に備えており、上杉軍は大坂城攻めには直接参加しなかった。1623年3月20日死亡。
それを乗り越えて120万石の大名になるけど関ヶ原で負けて30万石のただの大名になっちゃってまたまた苦労することになりますし。でも経済的に苦しいのに家臣を手放さずに面倒みてあげていますね(逆にみんながついてきたんでしょうか? 資料がないのでその辺不明ですけど、上杉の家風が好き!っていう人多そうですので)。 景勝と直江兼続って本当に二人で一人って感じですよね。まったくもって二人はいい主君と家臣に出会ったものです。以上、寡黙な二代目・上杉景勝でした。 参考文献:戦国人名事典 コンパクト版・上杉景勝のすべて・激闘大坂の陣―最大最後の戦国合戦、ほか UPDATE 2001年4月1日Copyright (C) 2000-2001 Tikugogawa. |
≫
人物一覧・
合戦一覧・四方山話・用語集≫
【人物の紹介】→
次の武将
|