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【失態】1574年の伊勢長島の一向一揆攻めで初陣し(異説あり)、その後、紀伊雑賀攻め・石山本願寺攻めなどに参加して信長の息子としての役目を果たした。しかし1579年9月に勝手に伊賀に侵攻し、敵のゲリラ戦に翻弄され大敗してしまう。これは信長の大激怒され「親子の縁を切る」とまで言われたが、のちに許されている。
【後継者は俺だ!】織田家の後継者を決める清洲会議でなんとか後継者に任命されようと画策したが、秀吉が嫡孫の三法師(後の秀信)を押し後継者に選ばれてしまったため計画通りには行かなかった。1583年に柴田勝家と織田信孝が秀吉の織田家乗っ取りを防ぐため立ちあがると、信孝と仲の悪かった信雄は秀吉に協力。岐阜城の信孝を攻めて開城させ、後に自害させている。
これに危機感を感じた信雄は秀吉と通じていると噂になっていた三家老を殺害した。これを秀吉が厳しく詰問してくると、隣国で信長の同盟者であった徳川家康に助けを求める。 秀吉の台頭を快く思ってなかった家康は信雄を助けるために立ちあがり、小牧長久手の戦いが始まる。四国の長宗我部元親や越中の佐々成政らも巻きこんだこの戦いは、重要な防衛戦でこそ勝利したが、信雄の領地の城は次々と落とされ次第に追いつめられていった。
【単独和睦】そこで信雄は羽柴軍と単独講和し、その後は羽柴軍の一員として戦う。四国征伐・越中・九州征伐・小田原征伐などに参陣している。秀吉の下につくのは面白くはないが、時代の流れから言って仕方がないと思ったのであろう。
【保身に動く】1600年に関ヶ原の戦いが起きると近畿の情報を東軍に流している。しかし秀雄が西軍についてしまい所領は没収されてしまう。それから信雄は大坂城にいたが1614年に大坂冬の陣が始まると大坂城を脱出し豊臣軍の情報を徳川軍に提供した。大坂落城後は5万石を与えられたが、領土は息子に譲り自身は京都で余生を過ごす。1630年4月30、京都で死亡。
安土城を焼いた件ですが、信長の世間での強烈なイメージを払拭するためにしたという意見です。信雄が跡を継いだ時に信長の印象が強いと為政者としてはとても困るからです。 また転封を拒否した件ですが、これは恩のある家康に対する遠慮から断ったと言う説です。家康の旧領に入るのは申し訳ないなあ〜と思ったのでしょう。私自身は彼に詳しくないのでコメントは差し控えさせていただきます。
しかし彼は本当に悪く言われたい放題ですね。当時でも「三介(信雄のこと)殿のなさることよ」と馬鹿にされたり、外国の宣教師に「普通の人より智恵が劣っていた」などと評されてます。
参考文献:日本の歴史を騒がせたこんなに困った人たち・しぶとい戦国武将伝 Copyright (C) 2001 Tikugogawa. |
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