森忠政
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生没年:1570〜1634年/ 身分:美作津山19万石の大名/ 官位(通称、号):美作守 |
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(岐阜県兼山町にある蘭丸ら兄3人の墓)
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【突き落とされる】信長死後の織田家では、信長の次男・織田信雄(後ろ盾は豊臣秀吉)と三男・信孝(後ろ盾は柴田勝家)の二人の対立が激しくなった。その時の森家の当主・長可は、義父である池田恒興に同調し秀吉につこうと決めた。
だが彼には気になることが一つあった。弟の忠政が信孝の居城・岐阜城に預けられていたのだ。このまま秀吉につけば間違い無く忠政は殺されるだろうと考えた長可は忠政の救出に向かう。わずかな手勢で岐阜城に忍び込み忠政を外に出すと、布団が敷いてある30メートル下の谷底に突き落とし脱出に成功する。
【森家を継ぐ】1584年、今度は秀吉と信雄(今度の後ろ盾は徳川家康)の仲が悪くなり小牧・長久手の戦いが起こる。長可は秀吉有利と見て羽柴軍につくが、徳川軍を奇襲しようとして失敗し逆に討ち取られてしまう。このため忠政が金山城主となる。
その後、佐々成政討伐戦・九州征伐・小田原征伐などに参加し功を上げている。朝鮮出兵では肥前の名護屋城の築城奉行を命ぜられ渡海は免れている。
(津山城に建つ忠政の像)
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【美作の太守】1603年2月6日、忠政は美作19万石に移封となる。忠政は山名氏の支城であった鶴山城跡を津山と名を改め、1604年から12年間の歳月をかけて築城。それに合わせて津山の城下町を整備し現在の津山市の形を作っている。大坂の陣が始まると兵800を率いて参陣。西側の船場を担当している。夏の陣でも船場口を守り206人を討ち取っている。
1634年7月7日、上洛する秀忠を迎える奉行に任命され京で指揮を取っていたが、商人・大文字屋宗味の家で桃を食べたところ、それに当たってしまい死亡。享年65歳。京都の大徳寺三玄院に葬られた。
(高野山にある森忠政の墓)
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参考文献:戦国の雄 森忠政考・三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版