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1599年5月19日、元親が伏見で亡くなると土佐22万石を継ぐ。翌年、関ヶ原の戦いが起こると、盛親は東軍につこうとするが、家康への使者が近江で西軍に阻まれ、そちらに味方する他なくなってしまう。仕方なく長宗我部軍は6600ほどの兵を率いて、7月に大坂城に入城。各城を落とし9月初めに美濃に到着。そして同月15日朝、関ヶ原の戦いに参戦。だが、徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かず、実際の戦闘には加わることが出来ないまま、敗戦を向かえる。
その後、盛親は京都へ送られ謹慎生活に。そこで『大岩祐夢』と号して寺子屋の師匠となる。1614年秋に豊臣家から招きがあると家臣を率いて大坂に入城した。 【冬の陣では出番なし】大坂城内で盛親は二の丸の西中央と三の丸の八丁目口を担当することになる。八丁目口のある南側は徳川・豊臣軍共に主力軍を配置しており、激戦が予想される場所であった。だが、冬の陣は真田丸の攻防以外は小競り合いしかなく、盛親にほとんど出番のないまま和議が成立する。
5月6日午前1時、彼らは約兵2万を率いて出発。未明には長宗我部隊は八尾方面に到着した。そこで同じく八尾方面に進撃していた藤堂高虎軍と、そのまま戦闘に突入する(八尾の戦い)。この戦いでの長宗我部隊の活躍はすさまじく、藤堂軍を壊滅寸前にまで追いこむ。だが、敵に援軍が駆け付けたために撤退を余儀なくされる。 【捕縛】勝利を諦めた盛親は次の日の天王寺・岡山での最終決戦には参加せず、大坂城の守りについていたが、敗北が決定的になると再起を図って逃亡した。だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして同月15日、六条河原で斬首される。
ですが14年にも及ぶ軟禁生活で人間が出来たのか、大坂城に入ったときは控え目な態度をとっています。真田幸村・後藤基次(又兵衛)に作戦立案をさせ、自分は同意するだけ。彼にも二人くらいの作戦立案能力はあったでしょうし、それに他の二人より元の地位が高いから、普通は「俺がえらいんだあ。俺にまかせろ」ってなるところなんですが。控え目だけどやるときはやる、という感じがして好感の持てる人物です。でも自信家なのは自信家だったみだいですね。死ぬ間際の言葉、「大坂落城の第一の原因は盛親の負け戦にあり」とか、なかなか言える台詞じゃないですね。
ちょっと話しが変わりますけど彼は、お父さんやお兄さんに似て、背が高く身長が180cmくらいあったようです。その当時の平均身長は160cmくらいのはずですから、当時としてはかなりの大男になります。さぞ城内で目立ったことでしょう。 参考文献:大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略・真田戦記・長宗我部元親―四国の雄、三代の栄光と苦悩 UPDATE 2001年5月15日Copyright (C) 1999-2006 Tikugogawa. |
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